ユーザーは馬鹿であるべき

日本の会社の作る製品は中が見えない。

見せたら終わりだと思っている。

中身なんて気にせず正しく使えと説明書にも書いてある。

 

日本の会社にとってユーザーは観客である。

ステージに立つ主人公は誰か。

もちろん社長だ。

 

社長は観客がステージに上ることを望まない。

社長は観客を釘付けにしなければいけないと考えている。

社長は観客の望むものをすべて用意しなければいけないと考えている。

 

だから日本の社長は飽きられた。

 

ユーザーは自らを観客だとは思っていない。

ユーザーはいつだって主人公になることを夢見ている。

ユーザーはステージに上るためにその製品を手に取った。

 

会社はユーザーにステージを与えなければいけない。

会社はユーザーを主人公に仕立て上げなければいけない。

会社は黒子になり息をひそめて主人公を輝かせなければいけない。

 

それこそがウィンドウズであり、スマートフォンであり、ユーチューブである。

ツイッターでもいい。

インスタグラムでも結構。

 

ユーザーは馬鹿で何も作れないから遊びを教えてやる。

ユーザーは馬鹿であってほしい。

ユーザーは馬鹿でなければ困る。

 

だから今、社長は困っている。

 

人とコミュニティと創作

創作は自己主張である。必ず見せたい相手がいる。

相手は一人かもしれないし、そうでないかもしれない。

相手が一人なのであれば、それは間違いなく求愛だ。

相手が一人ではなくとも、それはきっと求愛だ。

君はコミュニティに憧れ、コミュニティに愛されるため机に向かうのだ。

 

コミュニティは人だ。

君が机に向かう時、君は恋に落ちている。

人を想い浮かべ、その人の気を惹こうと試行錯誤している。

 

人はただ一人に恋をする。

万人に向けた愛なんてない。

あるとしても、それはきっと照れ隠しだ。

 

異性かもしれないし、同性かもしれない。人間ではないかもしれない。

極論、何だっていい。

確かなのは、君の頭の中には一人の人格がモデリングされて、

君は都合よくその相手に憧れているということだ。

 

そして愛すべき相手を見失ったとき、君は机を去るのだ。